四川大地震・・怖いよな、地震は。
中国四川省で25日、
青川県を震源とするマグニチュード(M)6.4の地震が発生したんじゃよ。
これまでの余震としては最大規模で、中国新聞社電によれば、1人が死亡、260人以上が負傷し、うち24人は重傷じゃよ。
また、7万軒以上の家屋が倒壊したんじゃよ。
政府は二次災害の拡大防止に全力を挙げているんだとよ。
また、中国水利省は同日の記者会見で、
四川大地震の被災地にできた「せき止め湖」が決壊して大規模な洪水を引き起こす恐れが強まり、
下流の住民70万人以上が脅威にさらされていると明らかにしたんじゃよ。
政府は人工的に水を流出させるため爆破処理を急いでいるんだべ。
土砂崩れで川の流れがせき止められたこうした湖は四川省に34カ所あるんじゃよ。
うち北川県の上流3.2キロにある唐家山のせき止め湖では水量が1億立方メートルを超え、
毎日2メートル余り水位が上昇しているんじゃよ。
現地の震災対策本部は軍部隊とブルドーザーなどの重機を用意し、
綿陽や北川から輸送する態勢を整えたが、悪天候で出発が遅れているんじゃよ。
このため、洪水防止を目的に一部爆破を優先する作戦に変更じゃよ。
新華社電によれば、武装警察部隊150人が爆薬を携え、車と徒歩で唐家山に向かったんじゃよ。
余震の影響で困難が増したとみられるんじゃよ。
中国政府は余震発生前の25日正午(日本時間午後1時)現在、地震による死者が6万2664人に上ったと発表したんじゃよ。
負傷者は約35万8800人んじゃとよ。
ほかに2万3775人が行方不明になっているんじゃよ。
私は、今年、99歳になるだよ。
こんな、切ない思いしたくないわ。
困っている、中国の人たちを、助けてやってくれ。
2008年05月24日
病気
病気とは心身の不調あるいは不都合であって、いわゆる医療による改善が望まれるものと定義できたとしても、
何が病気であるのか、病気でないのかを決めるのは、一般社会、あるいは医師の社会の総意によって決められている、
と言えるだろう(医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは循環論法となりうるが)。
実際、ステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、
その病気が存在するかどうか自体が、学問的のみならず、政治的に問題となることもあるんじゃよ。
病気の定義を「本人あるいは周囲が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがあるんじゃよ。
「本人あるいは周囲が」としたのは、精神疾患や軽症の疾患の中には、本人は生活上の不都合を感じないが、
周囲の者が生活上支障をきたすために治療の必要性を感じる場合があるからであるんじゃよ。
本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診することもないのであり、
このような定義でも実際上の問題は生じにくいんじゃよ。
生活上の問題を感じないことを理由に、依存症・嗜癖や骨粗鬆症と医師に診断された人が自分が健康であることを主張したり、
あるいは身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性であると主張されることがあるが、
これらはその意味で一理あることともいえるんじゃよ。
何が病気であるのか、病気でないのかを決めるのは、一般社会、あるいは医師の社会の総意によって決められている、
と言えるだろう(医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは循環論法となりうるが)。
実際、ステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、
その病気が存在するかどうか自体が、学問的のみならず、政治的に問題となることもあるんじゃよ。
病気の定義を「本人あるいは周囲が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがあるんじゃよ。
「本人あるいは周囲が」としたのは、精神疾患や軽症の疾患の中には、本人は生活上の不都合を感じないが、
周囲の者が生活上支障をきたすために治療の必要性を感じる場合があるからであるんじゃよ。
本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診することもないのであり、
このような定義でも実際上の問題は生じにくいんじゃよ。
生活上の問題を感じないことを理由に、依存症・嗜癖や骨粗鬆症と医師に診断された人が自分が健康であることを主張したり、
あるいは身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性であると主張されることがあるが、
これらはその意味で一理あることともいえるんじゃよ。
2008年05月18日
平和がいいね
人類は歴史において継続的に争ってきたんじゃよ。
史料が残っている6000年以内に発生した戦争だけに限ってもその回数は15000回以上であると考えられており、
またドイツ社会学者のソローキンによれば
12世紀から19世紀の間*大量破壊兵器の拡散は核兵器の開発技術、核物質、技術者が世界規模に拡散し、
また比較的製造が簡単な生物兵器や化学兵器が世界各地に流通することであり、
テロと結びつけば治安が大きく破壊されるんじゃよ。
また積極的な軍事攻撃を方針とする国家に渡れば、
軍事力の不均衡をもたらす可能性があるんじゃよ。
民族・宗教・経済格差などの要因による紛争は歴史においても恒常的な戦争の誘因となってきたんじゃよ。
国内における民族衝突や経済格差が深化すれば、
国家間の戦争だけでなく、国内での内戦やクーデター、革命などに結びつくんじゃよ。
しかし、すべての蜂起が最悪の結果に繋がったというわけではなく、
民主主義を確立するための王制との争いは歴史的な視点に立てば一定の成果が得られたものであるんじゃよ。
しかし、いたずらに戦禍だけが拡大していき、
結果的には経済的、政治的に大きな被害をこうむることとなった事件も多々あるんじゃよ。
その内容、性質、方向性などによって結果は変わらないね。
史料が残っている6000年以内に発生した戦争だけに限ってもその回数は15000回以上であると考えられており、
またドイツ社会学者のソローキンによれば
12世紀から19世紀の間*大量破壊兵器の拡散は核兵器の開発技術、核物質、技術者が世界規模に拡散し、
また比較的製造が簡単な生物兵器や化学兵器が世界各地に流通することであり、
テロと結びつけば治安が大きく破壊されるんじゃよ。
また積極的な軍事攻撃を方針とする国家に渡れば、
軍事力の不均衡をもたらす可能性があるんじゃよ。
民族・宗教・経済格差などの要因による紛争は歴史においても恒常的な戦争の誘因となってきたんじゃよ。
国内における民族衝突や経済格差が深化すれば、
国家間の戦争だけでなく、国内での内戦やクーデター、革命などに結びつくんじゃよ。
しかし、すべての蜂起が最悪の結果に繋がったというわけではなく、
民主主義を確立するための王制との争いは歴史的な視点に立てば一定の成果が得られたものであるんじゃよ。
しかし、いたずらに戦禍だけが拡大していき、
結果的には経済的、政治的に大きな被害をこうむることとなった事件も多々あるんじゃよ。
その内容、性質、方向性などによって結果は変わらないね。
2008年05月15日
健康づくり
3つの基本戦略
健康づくりに向けた3つの基本戦略が確認されたんじゃよ。
1. 推奨する: 積極的に健康を選択できるような環境を創造する
2. 可能にする: 変化することの利点を説明する事により、積極的に生活習慣を変化するよう後押しする
3. 調停する: 利害関係の対立する2つの政党を仲立ちし、健康づくりにむけた妥協点を模索する
基本戦略には社会学に由来する用語群が多用されているんじゃよ。
理解の一助として、これらの用語について解説するんじゃよ。
可能にする(enable)とは、個人や集団の協働により、
人的・物質的資源を流動化する取り組みであるんじゃよ。
これは、協働を通じた能力付与(エンパワーメント)を意味するんじゃよ。
人的・物質的資源の流動化とは、例えば、健康情報へのアクセスの提供、
個人スキル開発の促進、保健政策の制定に向けた政治的手段へのアクセスの支援であるんじゃよ。
推奨する(advocate)とは、政治的誓約(マニフェスト)、
政治的支援、社会的受容そして制度的支援を得るため
、個人と社会の活動の連携を促すことであるんじゃよ。
これは、健康的な生活状況を整えるため、そして健康的な生活様式を獲得するための、
個人と集団の支持にもとづいた取り組みであるんじゃよ。
この取り組みには、例えば、定義済みの課題をめぐる利益団体を通じた報道機関の利用、
対政府広報活動(ロビー活動)、地域の流動化などがあるんじゃよ。
調停する(mediate)とは、個人と地域のさまざまな(個人的社会的経済的)利益、
あるいは、さまざまな(公的私的)部門の和解を模索することであるんじゃよ。
人々の生活様式と生活状況は、否応無く、さまざまな利益と部門に摩擦をもたらすんじゃよ。
この摩擦には、例えば、アクセスの利害関係、資源の利用と分布、個人や組織の慣習に対する制約があるんじゃよ。
健康づくりでは、これらを戦略として、5つの活動領域における課題を確認し、取り組むこととなるんじゃよ。
健康づくりに向けた3つの基本戦略が確認されたんじゃよ。
1. 推奨する: 積極的に健康を選択できるような環境を創造する
2. 可能にする: 変化することの利点を説明する事により、積極的に生活習慣を変化するよう後押しする
3. 調停する: 利害関係の対立する2つの政党を仲立ちし、健康づくりにむけた妥協点を模索する
基本戦略には社会学に由来する用語群が多用されているんじゃよ。
理解の一助として、これらの用語について解説するんじゃよ。
可能にする(enable)とは、個人や集団の協働により、
人的・物質的資源を流動化する取り組みであるんじゃよ。
これは、協働を通じた能力付与(エンパワーメント)を意味するんじゃよ。
人的・物質的資源の流動化とは、例えば、健康情報へのアクセスの提供、
個人スキル開発の促進、保健政策の制定に向けた政治的手段へのアクセスの支援であるんじゃよ。
推奨する(advocate)とは、政治的誓約(マニフェスト)、
政治的支援、社会的受容そして制度的支援を得るため
、個人と社会の活動の連携を促すことであるんじゃよ。
これは、健康的な生活状況を整えるため、そして健康的な生活様式を獲得するための、
個人と集団の支持にもとづいた取り組みであるんじゃよ。
この取り組みには、例えば、定義済みの課題をめぐる利益団体を通じた報道機関の利用、
対政府広報活動(ロビー活動)、地域の流動化などがあるんじゃよ。
調停する(mediate)とは、個人と地域のさまざまな(個人的社会的経済的)利益、
あるいは、さまざまな(公的私的)部門の和解を模索することであるんじゃよ。
人々の生活様式と生活状況は、否応無く、さまざまな利益と部門に摩擦をもたらすんじゃよ。
この摩擦には、例えば、アクセスの利害関係、資源の利用と分布、個人や組織の慣習に対する制約があるんじゃよ。
健康づくりでは、これらを戦略として、5つの活動領域における課題を確認し、取り組むこととなるんじゃよ。
2008年05月10日
女性参政権について
戦前の日本において、完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったんじゃよ。
しかし、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、
女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、
女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、
貴族院の猛反対で廃案に追い込まれたんじゃよ。
第二次世界大戦後の1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされたんじゃよ。
また、翌10月11日、幣原内閣に対してなされた、マッカーサーによる五大改革の指令には、
「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていたんじゃよ。
また、終戦後10日目の1945年(昭和20)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、
衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出するんじゃよ。
同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、
婦人参政権運動を再開しているんじゃよ。
戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(1946年)
1945年11月21日には、まず、勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められるんじゃよ。
次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、
女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)んじゃよ。
1946年(昭和21)4月10日の戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生するんじゃよ。
しかし、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、
女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、
女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、
貴族院の猛反対で廃案に追い込まれたんじゃよ。
第二次世界大戦後の1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされたんじゃよ。
また、翌10月11日、幣原内閣に対してなされた、マッカーサーによる五大改革の指令には、
「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていたんじゃよ。
また、終戦後10日目の1945年(昭和20)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、
衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出するんじゃよ。
同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、
婦人参政権運動を再開しているんじゃよ。
戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(1946年)
1945年11月21日には、まず、勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められるんじゃよ。
次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、
女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)んじゃよ。
1946年(昭和21)4月10日の戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生するんじゃよ。
2008年05月07日
女性参政権
日本初の女性参政権
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、
女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議したんじゃよ。
しかし県には受け入れてもらえず、
喜多は内務省に訴えたんじゃよ。そして1880年(明治13年)9月20日、
日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められたんじゃよ。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現したんじゃよ。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域は
アメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、
この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となったんじゃよ。
しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、
規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除されたんじゃよ。
女性解放運動家の登場
平塚雷鳥
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、
政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできるんじゃよ。
女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになるんじゃよ。
完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、
女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、
女性が弁護士になる事を可能とする、
婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面で
いくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、
女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議したんじゃよ。
しかし県には受け入れてもらえず、
喜多は内務省に訴えたんじゃよ。そして1880年(明治13年)9月20日、
日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められたんじゃよ。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現したんじゃよ。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域は
アメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、
この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となったんじゃよ。
しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、
規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除されたんじゃよ。
女性解放運動家の登場
平塚雷鳥
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、
政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできるんじゃよ。
女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになるんじゃよ。
完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、
女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、
女性が弁護士になる事を可能とする、
婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面で
いくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
2008年05月05日
女性参政権について
日本初の女性参政権
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、
女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議したんじゃよ。
しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えたんじゃよ。
そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められたんじゃよ。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現したんじゃよ。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や
英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、
この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となったんじゃよ。
しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、
規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除されたんじゃよ。
女性解放運動家の登場
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、
政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできるんじゃよ。
女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになるんじゃよ。
完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、
女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、
婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、
女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、
女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議したんじゃよ。
しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えたんじゃよ。
そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められたんじゃよ。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現したんじゃよ。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や
英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、
この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となったんじゃよ。
しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、
規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除されたんじゃよ。
女性解放運動家の登場
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、
政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできるんじゃよ。
女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになるんじゃよ。
完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、
女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、
婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、
女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげたんじゃよ。
2008年05月02日
男女共学について
日本では、明治時代以降、第二次世界大戦降伏の時期まで、
就学前教育(幼稚園など)と初等教育(小学校、国民学校など)を除いて、男女別学が主流であったんじゃよ。
これは、1891年に出された「学級編成等ニ関スル規則」に基づいているんじゃよ。
尋常小学校の1、2年だけを共学として、3年生以降は男女別学とし、
男子と女子とでカリキュラムも教科書も全く別な物とすることが、
各学校に公立、私立の区別なく義務付けられたのであるんじゃよ。
このため、戦前の日本には高等教育の男女共学校は存在しなかったんじゃよ。
1947年(昭和22年)には、教育基本法(昭和22年法律第25号)が公布され、
その第5条で、
『男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。』
とされたんじゃよ。
その後、特に公立学校や国立学校においては、教育上の男女の共学が原則となったんじゃよ。
しかし、2006年(平成17年)の改正で男女共学に関する規定は削除されているんじゃよ。
男女共学については、男女の性別を理由にした学習内容の差別を行わないことも重要と考えられているんじゃよ。
「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女子差別撤廃条約)の第10条では、
『締約国は、教育の分野において、女子に対して男子と平等の権利を確保することを目的として、
特に、男女の平等を基礎として次のことを確保することを目的として、
女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。』とされ、
締結国が確保することとして『農村及び都市のあらゆる種類の教育施設における職業指導、
修学の機会及び資格証書の取得のための同一の条件。(後略)』(同条a項)、
『同一の教育課程、
同一の試験、同一の水準の資格を有する教育職員並びに同一の質の学校施設及び設備を享受する機会』(同条b項)を
確保することなどが規定されたんじゃよ。日本国内では、条約の効力が生じた1985年(昭和60年)7月25日の後に、
中学校の教科「技術家庭」や高等学校の教科「家庭」などの男女共修化が行われているんじゃよ。
このような男女共修は、性差別(男女差別)を撤廃し、男女共学を一層推進するものと考えられているんじゃよ。
就学前教育(幼稚園など)と初等教育(小学校、国民学校など)を除いて、男女別学が主流であったんじゃよ。
これは、1891年に出された「学級編成等ニ関スル規則」に基づいているんじゃよ。
尋常小学校の1、2年だけを共学として、3年生以降は男女別学とし、
男子と女子とでカリキュラムも教科書も全く別な物とすることが、
各学校に公立、私立の区別なく義務付けられたのであるんじゃよ。
このため、戦前の日本には高等教育の男女共学校は存在しなかったんじゃよ。
1947年(昭和22年)には、教育基本法(昭和22年法律第25号)が公布され、
その第5条で、
『男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。』
とされたんじゃよ。
その後、特に公立学校や国立学校においては、教育上の男女の共学が原則となったんじゃよ。
しかし、2006年(平成17年)の改正で男女共学に関する規定は削除されているんじゃよ。
男女共学については、男女の性別を理由にした学習内容の差別を行わないことも重要と考えられているんじゃよ。
「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女子差別撤廃条約)の第10条では、
『締約国は、教育の分野において、女子に対して男子と平等の権利を確保することを目的として、
特に、男女の平等を基礎として次のことを確保することを目的として、
女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとる。』とされ、
締結国が確保することとして『農村及び都市のあらゆる種類の教育施設における職業指導、
修学の機会及び資格証書の取得のための同一の条件。(後略)』(同条a項)、
『同一の教育課程、
同一の試験、同一の水準の資格を有する教育職員並びに同一の質の学校施設及び設備を享受する機会』(同条b項)を
確保することなどが規定されたんじゃよ。日本国内では、条約の効力が生じた1985年(昭和60年)7月25日の後に、
中学校の教科「技術家庭」や高等学校の教科「家庭」などの男女共修化が行われているんじゃよ。
このような男女共修は、性差別(男女差別)を撤廃し、男女共学を一層推進するものと考えられているんじゃよ。
2008年04月30日
高校三原則について
第二次世界大戦前の旧制学校は格差を前提としたシステムだったんじゃよ。
戦後の学制改革では教育を受けたいと希望する全ての人に門戸を広げるための方策として
小学区制・総合制・男女共学の高校三原則に沿った新制高等学校の設置が進められたんじゃよ。
当時の行政側の意図は
「旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、
小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうとする考えによるものである。」
だったというんじゃよ。
なお、「高校三原則」という言葉をいつ誰が最初に使用したかについてははっきりしていないんじゃよ。
この原則は都市部ではほぼ指導通りに実行されたが周辺地域や地方ではあまり徹底されない内に
立ち消えとなったために東京・神奈川を除く関東地方や東北などにおいては男女別学の公立高校が現在も多く残存しているんじゃよ。
その後、受験競争の激化や高校の多様化などの要因により小学区制と総合制については多くの地域で原則が崩れていき、
学区の拡大・廃止や総合制をやめて普通科もしくは専門学科単科の高等学校へと改編する例がみられたんじゃよ。
一方、男女共学については戦後の改革で共学制に転換した公立高等学校及び新設の公立高等学校では
ほぼ例外なく維持されているんじゃよ。
なお、私立学校は本原則の対象とならなかったんじゃよ。
そのため、私立で男子校や女子校、中高一貫校ができることとなるんじゃよ。
男女別学や中高一貫教育を望む家庭では公立を避けて子弟を私立校に進学させる傾向が強くなることとなったんじゃよ。
戦後の学制改革では教育を受けたいと希望する全ての人に門戸を広げるための方策として
小学区制・総合制・男女共学の高校三原則に沿った新制高等学校の設置が進められたんじゃよ。
当時の行政側の意図は
「旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、
小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうとする考えによるものである。」
だったというんじゃよ。
なお、「高校三原則」という言葉をいつ誰が最初に使用したかについてははっきりしていないんじゃよ。
この原則は都市部ではほぼ指導通りに実行されたが周辺地域や地方ではあまり徹底されない内に
立ち消えとなったために東京・神奈川を除く関東地方や東北などにおいては男女別学の公立高校が現在も多く残存しているんじゃよ。
その後、受験競争の激化や高校の多様化などの要因により小学区制と総合制については多くの地域で原則が崩れていき、
学区の拡大・廃止や総合制をやめて普通科もしくは専門学科単科の高等学校へと改編する例がみられたんじゃよ。
一方、男女共学については戦後の改革で共学制に転換した公立高等学校及び新設の公立高等学校では
ほぼ例外なく維持されているんじゃよ。
なお、私立学校は本原則の対象とならなかったんじゃよ。
そのため、私立で男子校や女子校、中高一貫校ができることとなるんじゃよ。
男女別学や中高一貫教育を望む家庭では公立を避けて子弟を私立校に進学させる傾向が強くなることとなったんじゃよ。
2008年04月28日
学校
戦後になると連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) が日本の民主化のため、
軍国教育の温床となった師範学校制度を解体し、米国にならって教員養成を大学で行うよう指導したんじゃよ。
全寮制の師範学校の寮生活は悪名高き大日本帝国陸軍の内務班そのままで、
上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、
古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、
その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、
教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのであるんじゃよ。
かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、
形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、
このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていたんじゃよ。
このため、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、
旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部、学芸学部として再出発することになったんじゃよ。
しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、
黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは
審査の結果不適格として教壇を追われたんじゃよ。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、
また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化したんじゃよ。
軍国教育の温床となった師範学校制度を解体し、米国にならって教員養成を大学で行うよう指導したんじゃよ。
全寮制の師範学校の寮生活は悪名高き大日本帝国陸軍の内務班そのままで、
上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、
古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、
その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、
教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのであるんじゃよ。
かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、
形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、
このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていたんじゃよ。
このため、各地の師範学校はアメリカ合衆国の「リベラルアーツカレッジ」などを手本にして、
旧制諸学校を包有した新制大学の教育学部、学芸学部として再出発することになったんじゃよ。
しかし、大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、
黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは
審査の結果不適格として教壇を追われたんじゃよ。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、
また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化したんじゃよ。

